これは、私達が新婚旅行先で、神奈川県鎌倉市に行ってきた時の、恐怖体験です。
その頃、私は「太平記
」に夢中になり、鎌倉市に歴史探訪がてら行くことになりました。
太平記ゆかりの地だけあって、探訪する箇所は多くあり、私達は数日宿泊する心づもりで来ていました。
その歴史探訪の中に、今にして思えば二度と思い出したくもない、名前すら聞くのも嫌な、北条高時腹切りやぐらがあったのです。
鎌倉駅からすぐ近くには、北条氏屋敷跡だった一部分が、宝戒寺として建っています。
そこから10分ほども歩いて行くと、小さな橋があり、そこを渡ると、かつて北条氏一族の菩提寺があったと言われている、東勝寺跡がありました。
辺りは既に松林となっており、左右の松林の中央に道が一本、山裾まで続いていました。
東勝寺に火を放ち、870有余名が自害して果てた、鎌倉幕府滅亡の地である東勝寺跡。
この一本道を進んで行くと、十数段ほどの階段に突き当たります。
その階段を上りきった左手に、例の、北条高時腹切りやぐらがあったのです。
やぐらとは、山裾の岩盤を掘って穴蔵にした、言わば、中国式の墓所です。
知る人ぞ知る場所だけあって、昼なお暗く、辺りは鬱蒼とした樹木が生い茂り、小動物…、いえ、鳥一羽、虫一匹の気配すら感じる事はできませんでした。
さらには、やぐら入口付近に密集して垂れ下がっている藤の花が、自害して果てた武将たちの無数の手に見えるような気がして、嫌がうえにも、不気味なほどの静寂をより一層、不気味にしていたのです。
ぽっかりと開いた、高さ1メートルほどの薄暗い穴の中には、「北条高時以下870有余名」と記載された、大きな木製の墓標が建っていました。
そして、それを囲む様に、五段に積んだ小石が、幾つも点在していたのを覚えています。
そこは、周りが静寂に包まれていたからだとか、全く人気ひとけがないから、とかいう次元の話ではありませんでした。
おどろおどろしい、とでも言うのでしょうか?
目に見えずとも、何かしら鬼気迫るものがあるのを、感じずにはいられなかったのです。
ほんの数分間いただけにも関わらず、あまりの不気味さと、魂を押し潰されるほどの圧迫感に、気分が悪くなりそうでした。
耐えられなくなった私は、
「…ちょっと、気味悪くない?もう帰ろうよ。」
と、言ったものの、全く霊感のない主人は驚いて、
「えっ?帰るの?せっかく来たんだから、もう少し見ていこうよ。」
などと、信じられない事を言い出しました。
私は、主人の言葉を振り切って、
「とにかく、帰ろう!」
と、急き立てました。この場所の異様な雰囲気が、耐えられなかったのです。
私が踵を返して、帰ろうとした時です。 突然、すぐ近くから砂利を踏みしめる足音とともに、歩く度に当たる帯刀した甲冑独特の音が、聞こえてきました。
しかもそれは、こちらに向かって、次第に近づいて来るではありませんか。その気配は、明らかに、生身の人間のそれとは雰囲気が異なっていました。
“…まずい!早く、ここから逃げなければ…。”
私が数歩進みかけた時、フッ…と、右後方に何者かの立つ気配がしました。
主人かと思い、名を呼ぼうとして見回しましたが、誰もいません。それどころか、主人の姿すら、まるでかき消すようにいなくなってしまったのです。
“…えっ?…嘘、何で…?”
恐怖のあまり、脚に根が生えたようになっている自分に鞭打って、体を動かそうとした私の耳が、左側の草藪からガサガサッ…という、何かの蠢く音を捉えました。
私は、思わず目を疑いました。
その草藪から、5~6人、いえ、もっといたでしょうか?何人もの傷ついた兵士が、何とも表現し難い苦悶の表情で、恨めしげに、こちらの様子をジッ…と見つめていたのです。
と、今度は、私の左側後方から、人の気配を感じました。が、誰もいません。そう思った次の瞬間、反対側の右後方にヌッ…と、何者かの放つ異様な妖気が漂いました。
そこには、大柄な厳つい姿の…
“…武将…?”
とでも表現した方が妥当と思われる男性が、やはり、何とも表現できぬ苦悶の表情を浮かべたまま、怖じ気立つほどの冷たい視線を、私に投げかけていたのです。
その表情は、生者に対する、激しいまでの憎悪 と嫉妬ではないかと、私には感じられました。
例の兵士たちがわらわらと、爬虫類のように、草藪から這い出てきます。霊に囲まれたと感じた私は、思わずゾッとなりました。
“…ひぃっ…!”
声にならない叫び声をあげたかも知れないし、あげなかったかもしれません。
“このままでは、間違いなく魂を抜き取られる…゜或いは、…霊に取り付かれる…!”
とっさに判断した私は、主人もそこそこに、その場から逃げ出しました。あんなにも、身の危険を感じた恐怖は、未だかつてありませんでした。
その時、私の名を呼びながら追いかけてくる主人の声が、聞こえてきました。やはり、主人は、私の近くにいたのです。
身の毛もよだつ恐ろしさに、振り向いて後ろを確認する余裕など、私には、全くありませんでした。
今にも、彼らの息が、耳元にかかるのではないか?今にも、首筋を、鷲掴みにされるのではないか?
そんな考えが、脳裏を霞めました。
階段を、急いで降りる私の頭上…と言うより背後に、もはや、魑魅魍魎、妖怪変化、悪霊、怨霊と化した武将たちの霊魂が迫って、全身に纏わりつきながら、追いかけてくるのがわかりました。
確認したわけでもないのに、なぜか、巨大化した白い塊のような物が、組んず解ほぐれつ迫ってくる姿を、容易に想像できたのが。不思議でした。
私達は、這々の体ほうほうのていで、何とか命からがら、ホテルまで逃げ帰る事ができました。
“…た・助かった…。”
主人は何も感じなかったようですが、私だけは、ホッと胸を撫で下ろしました。
帰ってからも、あの時の恐怖体験が、脳裏から離れませんでした。