はじめに断りを入れておきます。これは全く裏付けのない妄想レベルの推察です。
白骨街道。交通事故が多いのでこんな名前がついたなんて言われていますが、自己多発現場に「白骨」なんて名前をつけるでしょうか?
普通なら「魔のナニナニ」とか「死のナントカ」って名前がありがちな名前で、交通事故ではバラバラになったとしても一足飛びに白骨になんてならない。
交通事故が名前の由来としてはどうしても違和感がある。
そこで、ひょっとしてこの街道を白骨が大量に通過した何か歴史的な事件があったのではないか?
そう思い、一つの可能性に思い当たった。
日露戦争だ。
かの有名な激戦地、旅順要塞攻防戦で富山県出身者が所属した第35連隊は大損害を受けているのだ。
具体的には8/21~24の盤龍山砲台攻防戦である。このたった3日間の戦闘で第35連隊は1578人もの戦死者を出している。
その内、現氷見市出身者はおよそ100~120人程と推測される。
(※一番年代が近い大正9年の富山県全体と氷見市の人口データの比率からの推定値。両者の人口の推移から統計より過去においても急激な人口変化はなかったと推測される)
この当時、まだ氷見線は氷見まで延伸していない。なので大陸から届いたこの100人分の遺骨を氷見市内に持ち込むルートは2つ。
伏木駅から海沿いに今の国道415号線を通るか、高岡駅から海老坂の坂を越える旧国道160号線ルート―――そう、白骨街道だ。
当時の気象条件は不明だが、海沿いの道はもし海が荒れていれば特に雨晴付近は危険だ。当時は自動車なんて無いから徒歩なので尚更だ。安全な内陸ルートを通ろうとする可能性は十分考えられる。
そして当時の日本人が戦死者の遺骨を粗雑に扱うとは思えないので、きっと100人分の骨壷を抱えた大勢の人々が行列をなして旧160号線を通ったのだろう。大勢の人も沿道でソレを見たはずだ。
その高岡から氷見へと入る百人分の遺骨の列を見た誰かが思ったのではないか?「白骨の通る街道、白骨街道」だと。
第二次世界大戦ではこうは行かない。富山県の部隊が出征したのは主に中国戦線で、基本的に勝ち戦でゲリラ戦などの日々の消耗はあっても大量の死者が一度にでた戦況は考えにくい。
何より遺骨は氷見線延伸後はで氷見駅まで届いたと考えるのが自然だ。
改めて言いますが、これは全く裏付けのない妄想です。
単に白骨街道という名前からこの街道を大量の白骨が通るような歴史的なナニカがなかったかと想像を膨らませただけの話です。
どうか、本当の由来をお知りでしたら教えて下さい。
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